過去に起きた薬害事例
医薬品は、人の健康や生命を守るために欠かせないものですが、十分な注意を払って正しく使用していたとしても、副作用の発生を完全に防ぐことは大変難しいことです。
このような副作用などの有害事象により、それが社会問題となるまでに規模が拡大した、いわゆる「薬害」は主に以下のようなものがあります。
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薬害事例
サリドマイド事件
概 要
旧西ドイツの製薬企業が開発した睡眠剤で、てんかん患者の抗けいれん剤として開発されました。その後、一般的な睡眠薬として広く使用され、多くは昭和30年代半ばに、妊婦がこの医薬品を睡眠薬として服用した結果、手足の奇形(アザラシ症)がある子供が産まれるということが起こりました。日本での被害者は約310人で、昭和37(1962)年、サリドマイド含有の医薬品は全面的に販売中止となりました。
いしずえ事務局長:増山ゆかりさん
年 代
1957年~1962年
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詳 細
サリドマイドは、ドイツ(西独)のグリュネンタール社が開発した催眠剤で、1957年10月1日、「コンテルガン」の商品名で市販された。後に妊娠初期の妊婦が服用することによって胎児に独特の奇形(フォコメリア等)が生じることがわかり、1961年11月15日にドイツ(当時西独)のW.レンツ博士がコンテルガンが原因と警告した。1961年11月26日、グリュネンタール社は回収を決定した。
アメリカでは1960年9月に米国メレル社の販売許可の申請がありましたがFDA(アメリカ食品医薬品局)の審査官フランシス・ケルシーがその安全性に疑問を抱き審査継続を行ったため、治験段階で数名の被害者を出しただけでした。1962年にケルシーはケネディ大統領から表彰されています。
日本では、大日本製薬が独自の製法を開発し、1958年1月20日に「イソミン」の名称で販売を開始、1959年8月22日には胃腸薬「プロバンM」に配合して市販した。
東京の都立築地産院では1959年から1961年までに3例のフォコメリア児の出産が報告されるなど、全国で被害が生じたが、大日本製薬は当時西ドイツに研究員を派遣するなどして情報を入手していたにもかかわらずこれを無視し販売を続けた。
また厚生省も1962年2月に亜細亜製薬(あじあせいやく)のサリドマイド剤「パングル」を認可するなど、世界の大勢を全く無視し続けた。
1962年5月17日に大日本製薬がイソミンとプロバンMの出荷停止を、24日にはサリドマイド剤メーカー5社がそれぞれの製品の出荷停止を厚生省に申し入れた。
その9月13日にようやく大日本製薬などが販売停止・回収に踏み切った(しかしその後も回収されないサリドマイド剤が市中で販売されていた)。
厚生省は翌14日、サリドマイドの被害調査を東大・森山教授に依頼した。
被害者は、1962年年末までに広島・京都などでイソミンの販売と製造許可に対し法務局に人権侵害で訴えたが、翌5月13日、法務省人権擁護局は「侵害の事実なし」と結論。1963年6月28日に大日本製薬を被告として最初の損害賠償請求が名古屋地裁に提訴された。
1974年10月13日、全国サリドマイド訴訟統一原告団と国及び大日本製薬との間で和解の確認書を調印、続いて26日には東京地裁で和解が成立した。以後、11月12日までの間に、全国8地裁で順次和解が成立した。
アンプル入りかぜ薬事件
概 要
当時、解熱鎮痛薬のアミノピリン、スルピリンを主成分とし、ビタミン剤などを加えた液剤をアンプルに入れたOTC医薬品のかぜ薬が数多く市販されていました。昭和40(1965)年に千葉、静岡、大阪などで.アンプル入りかぜ薬が原因と思われる死亡事故が相次いで発生しました。その数年前から当時までに計38人が亡くなり、マスコミが大々的に取り上げ、製薬企業に対し販売の自粛が要請されました。
しかし.在庫品などによるショック死が引き続き起こり、一斉回収となりました。
現在、OTC医薬品のかぜ薬として、当時の有効成分であるアミノピリン、スルピリンを使用することはできず、また、葛根湯などの漢方製剤を除いては.液剤という剤形も認められていません。
年 代
1965(昭和40)年
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詳 細
1950年代当時は、錠剤や粉末状とは別の剤形の、有効成分を水溶液に混合してアンプルに入れた「アンプル入りかぜ薬」が各社から発売されており、飲用することで即効性が有るなどしたため需要は有ったものの、解熱剤としてピリン系製剤(スルピリンなど)が多く含まれていたためショックなどのアレルギーで死亡する消費者が続出した。
厚生省は1962年に製薬企業に発売停止や回収などを指示した。これは「アンプル入りかぜ薬事件」(薬害)と言われ、同時期に社会問題化したサリドマイド薬害の事も踏まえて、医療用医薬品の一般消費者向けの宣伝広告の制限・禁止されるようになる。
なお、ピリン系製剤で副作用の頻度が少ないイソプロピルアンチピリンを主成分とした頭痛薬や総合感冒薬が即効性を売りに販売されているが、ピリン系製剤のアレルギー体質でなければ過度の心配の必要はない。
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スモン(キノホルム)事件
概 要
スモンとは「非特異性脳脊髄膜炎症」(SubacuteMyelo-Optic0Neuropathy)の頭文字をとったもので、整腸剤として使用されていたキノホルムが関連しているといわれ、下痢・腹痛など消化器障害に続いて下肢などのしびれ、麻癒が広がり運動機能障害が発現しました。
昭和30(1955)年頃から、腸疾患治療中の患者が原因不明の神経炎症状や下半身麻痩が発生しており、当初は神経性奇病と考えられていました。昭和45(1970)年、キノホルム製剤は全面的に販売中止となりました。
チバガイギー
年 代
1955(昭和30)年~1970(昭和45)年
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詳 細
スモン(SMON、subacute myelo-optico-neuropathyの略称、別名:亜急性脊髄視神経症)とは、整腸剤キノホルムによる薬害。1955年頃より発生し、1967~1968年頃に多量発生した。
当初は原因不明の病気とされ、ウイルス原因説も出たが、現在ではキノホルムが原因と判明している。
スモンは、キノホルム投与により激しい腹痛が起こり、2~3週間後に下肢の痺れ、脱力、歩行困難などの症状が現れる。視力障害が起きることもある。合併症としては白内障、高血圧症などが起きやすい。患者は女性が多い。1970年に日本ではキノホルムの製造販売および使用が停止となり、新たな患者の発生はない。
治療は対症療法で、ノイロトロピンの投与、鍼灸などにより下肢の知覚異常に対処する。スモン体操というものもある。しかしながら、あまり効果があるとはいい難く治療困難なものである。
スイスの製薬会社「チバ社」(ガイギー社と合併後チバガイキーとなる)が、戦前から戦後にかけて、キノホルムを内服用としてアメリカや日本に広く販売しました。
当初、キノホルムは水に難溶性で「体に吸収されない」という知見から、細菌性などによる下痢の治療のための内服薬として使用されたのですが、その後、重度の下痢などの副作用が見られたことでアメリカでは「要指示薬」となり、昭和36年には一般に店頭での販売がアメリカで禁止となりました。
アメリカでの販売市場を失った後、日本の子会社「日本チバガイキー(=武田製薬)」が、日本国内でのキノホルムの製造と販売を激化させたと言われています。実際には、昭和28年~31年にチバガイキーの他、八洲化学(後に田辺製薬が吸収)と田辺製薬からもキノホルムを含む内服薬が販売され、国もそれを認めていました。恐ろしいのは、元来強い作用を持ち、適応症も限られるキノホルムを「何にでも効く整腸剤」的な保健薬(長期常用が可能)のイメージで薬局方に掲げていたことです。
薬害問題にもなり、悪名高いキノホルムであるが、オーストラリア、アメリカなどでは重度のアルツハイマー特効薬として注目を浴びており、研究が進められている。また、その際副作用によって生じる深刻なビタミンB12欠乏症はビタミン剤投与で補ってやれば副作用が起こらない(スモンの原因は深刻なビタミンB12欠乏を招くためであるから)という発表もされている。
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薬害エイズ
概 要
昭和45年ごろから主に血友病の患者が出血を止めるための特効薬として用いられた血液製剤(非加熱製斉1」)にHIV(ヒト免疫不全ウイルス)が含まれていたために、この血液製剤を介してエイズ(AIDS:後天的免疫不全症候群)の感染被害が多数起きたというものです。ウイルスを加熱処理で不活性化した加熱製剤が開発された後も2年以上にわたり放置され、被害が拡大しました。
川田龍平・参院議員
年 代
1957年~1962年
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詳 細
1996年8月から10月に帝京大学医学部附属病院の医師だった安部英、厚生省官僚だった松村明仁、ミドリ十字の代表取締役だった松下廉蔵・須山忠和・川野武彦が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴された。なお、安部の容疑は自らが担当した患者にHIVに汚染された非加熱製剤を投与して死亡させたことであり、HIVに汚染された非加熱製剤を流通させたことではない。この裁判は2000年にミドリ十字の3被告人に実刑判決、2001年3月に安部に一審無罪判決、9月に松村に有罪判決が出た。上訴中に認知症を患い2004年から公判が停止されていた安部は2005年4月25日に死去した。2008年3月3日、松村に対して最高裁は上告を棄却した。
なお、松村については、1985年から6月にかけて投与された患者に対する件については高裁段階で無罪が確定したが、1986年4月に投与された患者に対する件では、1986年1月に加熱製剤の日本における販売が開始され、十分な供給量を確保することが可能となったにもかかわらず、非加熱製剤の回収などの措置を講じなかったとして有罪判決が言い渡されている。
1996年8月9日にミドリ十字の当時の取締役に対する株主代表訴訟が起き2002年4月に和解した。株主代表訴訟の和解条項などに基づき、2006年5月以降社内に調査委員会を設置し、ミドリ十字が当該事件の惹起を防止できなかった原因を調査検討した。その結果、2007年7月9日に薬害事件の再発防止策に関する提言を含む報告書を取りまとめ、提言を受けた改善策と併せて公表した[1]。
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ソリブジン事件
概 要
平成5(1993)年に発売された帯状痘疹治療薬であるソリブジンとフルオロウラシル系抗がん剤との薬物相互作用で死亡が発生したというものです。添付文書には、これらの医薬品を同時に服用すると危険であるという注意が記載されていましたが、十分な注意喚起とはいえず、また、医療現場においても十分な認識がされていませんでした。
年 代
1957年~1962年
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詳 細
サリドマイドは、ドイツ(西独)のグリュネンタール社が開発した催眠剤で、1957年10月1日、「コンテルガン」の商品名で市販された。後に妊娠初期の妊婦が服用することによって胎児に独特の奇形(フォコメリア等)が生じることがわかり、1961年11月15日にドイツ(当時西独)のW.レンツ博士がコン照るガンが原因と警告した。1961年11月26日、グリュネンタール社は回収を決定した。
1960年9月に米国メレル社はFDA(アメリカ食品医薬品局)に販売許可を申請したが、M・ケルシーさんはデータが不備として認可を拒否した。
日本では、大日本製薬が独自の製法を開発し、1958年1月20日に「イソミン」の名称で販売を開始、1959年8月22日には胃腸薬「プロバンM」に配合して市販した。
東京の都立築地産院では1959年から1961年までに3例のフォコメリア児の出産が報告されるなど、全国で被害が生じたが、大日本製薬は当時西ドイツに研究員を派遣するなどして情報を入手していたにもかかわらずこれを無視し販売を続けた。また厚生省も1962年2月に亜細亜製薬のサリドマイド剤「パングル」を認可するなど、世界の大勢を全く無視し続けた。
1962年5月17日に大日本製薬がイソミンとプロバンMの出荷停止を、24日にはサリドマイド剤メーカー5社がそれぞれの製品の出荷停止を厚生省に申し入れた。その9月13日にようやく大日本製薬などが販売停止・回収に踏み切った(しかしその後も回収されないサリドマイド剤が市中で販売されていた)。厚生省は翌14日、サリドマイドの被害調査を東大・森山教授に依頼した。
被害者は、1962年年末までに広島・京都などでイソミンの販売と製造許可に対し法務局に人権侵害で訴えたが、翌5月13日、法務省人権擁護局は「侵害の事実なし」と結論。1963年6月28日に大日本製薬を被告として最初の損害賠償請求が名古屋地裁に提訴された。
1974年10月13日、全国サリドマイド訴訟統一原告団と国及び大日本製薬との間で和解の確認書を調印、続いて26日には東京地裁で和解が成立した。以後、11月12日までの間に、全国8地裁で順次和解が成立した。
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薬害肝炎
概 要
昭和39(1964)年から平成6(1994)年ごろまでの期間、ウイルスが混入していた血液凝固因子製剤(フィブリノゲン製剤、非加熱第1X因子製剤など)の投与によりC型肝炎の感染被害が起きたというものです。
これらの血液製剤は止血剤として使用され、特にフィブリノゲン製剤は、出産時などの止血を目的とし、多くの患者に投与されていました。
ミドリ十字
年 代
1964(昭和39)年~1994(平成6)年
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詳 細
薬害肝炎(やくがいかんえん)とは、血液凝固因子製剤(フィブリノゲン製剤、非加熱第IX因子製剤、非加熱第VIII因子製剤)の投与によるC型肝炎(非A非B型肝炎)の感染被害のこと。製薬会社「田辺三菱製薬」は、フィブリノゲン製剤の推定投与数は約29万人であり、推定肝炎感染数1万人以上と試算している。
フィブリノゲン製剤は、血液凝固第I因子であるフィブリノゲンを抽出精製した血液製剤である。日本では、旧ミドリ十字(現田辺三菱製薬)が1964年から製造販売している。
非加熱フィブリノゲン製剤「フィブリノゲン-ミドリ」(1964年-1987年)、およびウイルス不活化(ウイルスの感染力を失わせる)対策として乾燥加熱処理がなされた製剤「フィブリノゲンHT-ミドリ」(1987年-1994年)により、薬害肝炎が発生した。これらのフィブリノゲン製剤は、輸入売血または輸入売血と国内売血の混合血から製造されていた。現在販売されているフィブリノゲン製剤は、献血由来、乾燥加熱処理と界面活性剤処理が施されており、薬害肝炎の原因とはなっていない。また、1985年以前に製造されていたフィブリノゲン製剤は、BPL処理[1]が施されており、C型肝炎ウイルスは結果的に不活化されていたとの検証実験が報告されている。
第IX(第9)因子製剤 [編集]
第IX因子製剤は、血液凝固第IX因子を抽出精製した血液製剤である。本来は、血友病B型の治療のために開発された製剤であるが、本来適応症とはされていなかった新生児出血(メレナ等)などにも、小児医療の現場では使われていた。第IX因子だけでなく、第II因子、第VII因子、第X因子も含まれていることから、第IX因子複合体製剤とも呼ばれる。
C型肝炎の原因となったと原告側が主張する第IX因子製剤は「クリスマシン」と「PPSB-ニチヤク」の二種類ある。 「クリスマシン」は、旧ミドリ十字(現田辺三菱製薬)が1976年から1985年まで製造販売していた非加熱製剤である。「薬害エイズ」の原因にもなった製剤であり、1985年にウイルス不活化処理がなされた加熱製剤に切り替えられたが、その後も非加熱製剤の自主回収が行われなかったことから、1988年頃まで臨床現場で使用されていたと言われている。 「PPSB-ニチヤク」は、日本製薬株式会社が1972年から1986年まで国内買血を原料として製造販売していた非加熱製剤である。
なお、薬害肝炎訴訟(後述)において、本製剤での国及び製薬会社の責任については、大阪地裁及び福岡地裁においては原告側の請求は棄却された。東京地裁においては、製薬会社の責任が認められ、名古屋地裁においては、国の責任(および製薬会社の責任)を認める判決が言い渡された。しかしながら、この訴訟において最後の地裁判決となった仙台地裁では製薬会社については、一部責任が認められたものの国については、フィブリノゲンについても本製剤についても責任は無いとの判断が下された。
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